2011年05月10日
旧約の神の実像に迫る(ヘラトリ22 3‐5 転載)
『エローヒムとは何か(序論)』 (その3)
(本稿は、2011年4月27日北海道正心館七の日講話の内容をまとめたものです。)
ヤーウェの「誤訳」は、どこから始まったのか
次に、旧約聖書には、ヤーウェという神が出てきますが、ユダヤ教徒でそれを「ヤーウェ」と発音する人はいません。「みだりに名前を口にしてはいけない」という戒律があって、通常は、別の名前を代名詞として使っています。
その代理の表現を「アドナイ」と発音します。
その「アドナイ」が、ギリシャ語に訳された時に、(「代理表現」なので厳かに見えたのか)、「主」という意味のギリシャ語に訳されてしまいました。
従って、英語に訳された時は、"Lord"となり、日本語の聖書では「主」となっています。
「聖書に登場する「主」の語源が、すべて「ヤーウェ」である」とは言いませんが、少なからぬ部分は、「ヤーウェ」を語源としています。
(もちろん、根本にある原因は、「至高神エローヒムとその他の神霊の区別がつかなかったモーセの悟りの未熟さ」(『黄金の法』第5章)にあるのですが、それが、聖書の上では、そのような翻訳のスタイルとなって、現われてしまったのです。)
御法話『ヤーウェ、エホバ、アラーの正体を突き止める』によれば、ヤーウェはその後、19世紀の英国保守党の首相ディズレイリーとして生まれ変わりました。イギリスで唯一、ユダヤ人出身で首相になった人で、アフリカの植民地化を強力に推進しました。全知全能の神でも何でもありません。
また、エローヒムによれば、「ヤーウェ自身は、エチオピアかどこかの、エジプトに攻め込まれた地方の、辺境の地の小さな神がその出自であり、現代に例えれば、リビアのカダフィ大佐程度の存在だ」とのことです。
それが実態なのですが、「主」という言葉が冠せられたために、かなりの混乱が、その後の歴史で生じました。
(「主」とは本来、「創り主」という意味であり、「エル・カンターレ」にこそ、冠せられるべきものです。)
しかし、翻訳上の経緯からいうと、そういう混乱が起きています。「主」の名の下に、ここ三千年ほど、かなり西洋人を惑わせてきたので、「幸福の科学が、ユダヤ・キリスト教の中の“砂金”(=エローヒム)と“石”(=ヤーウェ)を選り分けなければならない」所以(ゆえん)となっています。
聖書の中で、「主」(Lord)という言葉に出会ったときに、「それがどちらの神のことを言っているのか、内容によって見分けよう」という眼を持つと、「洗脳」がパラパラと、剥がれ落ちるのを感じます。
あるいは、バチカンの麗々たる宮殿も、「音をたてて崩れる」とは言いませんが、「張り子の虎」に見えてくる感覚に打たれます。
(西方教会(カソリック、プロテスタント等)は、一般に、「エホバ(or ヤーウェ)を全知全能の神にしたがる」気が、ややありますのでね、これくらいは言っておいた方が良いと思います(笑)。)
びっくり仰天のヤーウェ発言
具体的に、ヤーウェ起源のいわゆる「主」の発言を見てみましょう。
ユダヤ民族の始祖はアブラハムですが、「創世記」第12章でアブラハムの前に登場する、いわゆる「主」を、ヤーウェに置き換えて読んでみます。
「ヤーウェは、アブラハムに言った。あなたの周りであなたを祝福する者たちのことは、私も祝福してあげるが、あなたを呪う者がいたら、私もその者を呪ってやる」と。
この発言を白紙の目でご覧になったら、いかがですか。
「四正道」や「許す愛」を学んだ人からみたら、「おかしい」と思うはずですね。「これがイエスの言われる"天なる父"の言葉なのだろうか?」と。
「あなたを迫害する者のためにこそ祈れ」と、「あなたを呪う者をこそ許せ」と、神ならばおっしゃるはずではないか、と思われると思います。
「許す愛」を説いて、これを修正するためにイエスが降臨された意味がよくわかります。
「これが本当に神様の言葉なのだろうか?」と思っても、「でも、Lordの名の下に書かれていることだから、神様が呪ってもいいなら、自分達も、呪ってもかまわないのだ」ということになって、紛争が絶えないわけです。
次に、「出エジプト記」の第5章を見てみましょう。
モーセが山でエローヒムに会った後、モーセと兄のアロンはパロ(エジプトの王)に会いに行って、次のように言います。
「ヤーウェはこう言っています。"私の民(イスラエルの民)を自由にして、元に戻しなさい"と」するとパロは、こう答えます。
「ヤーウェとは誰だ?聞いたことがないね」と。
つまり、超大国エジプトの王から見ると、「辺境のパレスチナの地の、山の神の名など、知らないよ」というわけです。
このように、「主」を「ヤーウェ」(辺境の地の山の神)に置き換えると、文章の意味が一変してきます。
その後、第5章以下第12章まで、パロにヤーウェの言うことを聞かせるために、ヤーウェの名の下に行われたことは、
「ナイル川の水を血の色に変えたり」、「蛙(カエル)を大量発生させて、地を覆ったり」、「地上の塵(ちり)を大量のブヨに変えて、人間を襲わせたり」、「アブの大群を家々の中に侵入させたり」、「人々の皮膚に、膿(うみ)の出る腫れ物をつくったり」、
「農作物の上に雹(ひょう)を降らせたり」、「イナゴの大群に全土を襲わせたり」、「エジプト人の全ての初子(ういご)の命を奪ったり」ということです。
大体このあたりで、人は、旧約聖書が嫌いになってしまうのですね(笑)。
(実際、私の知っている人で、こういうのが原因で、最後まで「洗礼」を受けなかった人がいます。)
「これを誰が命じ、実行させたのか」というのは、実際、日本語或いは英語の聖書だけ読むと、全て「主」が命じたことになっているので、それで混乱してしまうわけです。
しかし、ヘブライ語の原典までさかのぼって紐解いてみると、「アドナイ」と書いてあって、これはヤーウェの「代名詞」のことなのですね。
これがわかると、「なぁ~んだ」と疑問が氷解して、安心します。
これを長らく、「"神"がやったことなのだ」と信じてきた(少なくとも、信じ込もうとしてきた)わけですから、西洋三千年の歴史も、なかなか大変です。
(その4)
中東紛争の火種となった、ヤーウェのひと言
さらに言えば、細かくは詳述しませんけれども、「あなた方は、私以外の神を信じてはならない」(「出エジプト記第20章)
「あなた方は、偶像を造ってはならない」(同上)、「あなた方の神であるわたしは、妬む神である」(同上)、「だから、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代先まで呪ってやろう」(同上)、という言葉は、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「主」とは言っていますが、すべてヤーウェの言葉であることがわかります。
もう一つ付け加えれば、モーセがシナイ山で「十戒」を授かった有名な場面がありますが、そのとき、なかなかモーセが山から降りて来ないのを見て、イスラエルの民が、エジプト時代のように、子牛の像をつくって、その周りで踊ったりします。
すると、それを見たモーセは怒り狂って、こう叫びます。
「ヤーウェは、こう仰っている。『おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口へ行き巡って、自分達の兄弟、自分達の友、自分達の隣人を皆殺しにせよ』と」そして、そのとおり実行したので、一晩で三千人が虐殺されたと、「創世記」第32章には書いてあります。しかし、真実を言えば、天地創造の神が、そんな「異常性のある行動」を命じるはずもなく、ヘブライ語の聖書までさかのぼれば、それはヤーウェの命令であり、エローヒムではなかったことが記されています。
さらに、「創世記」第12章の以下の言葉に戻ってみましょう。
元々アブラハムの一族は、メソポタミア(今のイラク方面)の一地方に住んでいたのですが、ヤーウェは、アブラハムに向って、
「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが指し示す土地へ行きなさい」と命じ、カナン(今のイスラエル)の地に向かわせます。そして、アブラハムが一族と共に、カナンの地に入ったとき、再びヤーウェが現れて、「あなたの子孫に、わたしはこの土地を与える」
と言いました。これが今の「中東紛争」の起源です。
第二次世界大戦後、英米の後ろ盾を得て、世界中のユダヤ人が移植してきて、イスラエルの地に建国したとき、この「創世記」第12章のヤーウェの言葉が根拠とされました。
「四千年近く前の言葉が根拠にされる」というのも、すごい話ですが、いずれにせよ、イスラエルという国は、これを根拠にして建国されました。
その土地には、ユダヤ人もいましたが、アラブ人(パレスチナ人)が沢山住んでいました。したがって、追い出された人もいるわけですが、「神のくださった約束だから」ということで、それが「正当化」されているのです。
しかし、その神も、「主」とは表現されていますが、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「ヤーウェ」です。「エローヒム」ではありません。
この二つが「旧約聖書」の中で混在していることが、問題なのです。
(もちろん断っておきますが、この議論を通じて、イスラム教の側に立っているのではありません。レジメ校正中に、オサマ・ビン・ラディンが米軍の急襲で殺害されたニュースが入ってきましたが、イスラム教サイドの問題点については、機会を改めて触れたいと思います。)
「イザヤ書」の秘密を解く
今年1月16日の「『救世の法』講義」の後半部分で、新しい論点のお話がありました。その中で、『今日講演するにあたって、昨日いくつかの世界宗教のルーツの霊査に入りました。一神教のユダヤ教から調べに入りました。最初の頃のユダヤ民族の預言者には、モーセもそうなのですが、ヤーウェを信仰する一神教が頻繁に出てくるのですが、しかし、別の神の名前も出てきます』
と仰っしゃりながら、ここで新しく、旧約聖書の「イザヤ書」の話をされています。
「イザヤ書」には、第一イザヤ、第二イザヤという人が登場してきて(第三イザヤがいるという説もある)、この第二イザヤが、昔のリーディングでいうと、西郷隆盛なのですが、『この第一イザヤ、第二イザヤから、神の名前を「エローヒム」と呼んでいます』
と、そこで仰っています。
『そのエローヒムが、イザヤの前に現れた理由は、その数百年後、イエスが降臨することになっていたので、その準備のためでした』とありました。
ところで、この先生の御言葉は、日本語の聖書を読んでも、当然のことながら、わかりません。
また、英語版の聖書で読んでも、これまで、「創世記」や「出エジプト記」を分析してきた手法では、手がかりがつかめないのです。
これをどう解読したらよいのか。
主のおっしゃった、「イエスの降臨を準備するため」という言葉をヒントにして、以下で解明してみましょう。
(その5)
「イザヤ書」に登場するもう一つの「主」
イザヤ書は、第39章までが第一イザヤによるもので、第40章以降後半が、第二イザヤによるものとされています。
皆さんもよく、「イエスが生誕することは、旧約聖書の中で予言されていた」と聞かれたと思いますが、それが一番明確に書かれているのが、「イザヤ書」第7章なのです。
大抵の英語版聖書は、「主」をすべて、大文字で"The LORD"と表記します。ところが、プロテスタント福音派系の聖書では、「主」のことを、"The LORD"と、一部ですが、"the Lord"に、書き分けて表現しています。
これは、前者がヤーウェ(アドナイ)に起源を持つ「主」であるのに対し、後者がヤーウェに起源を持たない「主」(つまり「エローヒム」起源の「主」)であることを分かるようにするために、わざわざ、そのように表記しているのです。
そして、その"ヤーウェに起源を持たない「主」"が、「イザヤ書」第7章の「イエス生誕の予言の箇所」になって、突然、登場するのですね。
私も今日は、その聖書を持ってきています。日本語版では、全て「主」になっていますが、英語版の聖書には、一部、そのように書き分けてをしているものがあります。
つまり、イエスの生誕を予言した「主」の表記だけが、他とは違うのです。これは、語源までさかのぼってみないと、本当にわかりません。先生は、このことを仰っていたのです。
ここで、「イザヤ書」第7章13節からのくだりで、この「主」を「エローヒム」に置き換えて読んでみましょう。
「あなた方は、エローヒムのことを煩わせるでない。それゆえ、エローヒム自らが、あなた方に一つの「しるし」を与えるであろう。
見よ、処女が身ごもっている。そして、その処女は男の子を産み、「インマヌエル」と名づけるであろう。
その子は、凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べて育ち、やがて十分な知恵を得て、悪を退け、善を選び取るようになるであろう」
この予言をしている「主」のみが、表記が違っており、「ヤーウェ」を意味していないのですね。
さらに総裁は、『第二イザヤのところにも、エローヒムが現れた』と仰っていました。
これを探ってみますと、「イザヤ書」第45章のところで、実に興味深い表現が出てまいります。
読んでいるだけで、ゾクゾクしてくるくらい面白いのですが、(講話の中では仮説的に発表もしたのですが)、ここではグッとこらえて、もう一段証拠固めをして、ヘラトリ英語版で発表するときに、併せて、日本語版の方に加筆させていただきたいと思います。
以上、結論を4点にまとめてみると、
(1)エローヒムは、特定の名前を持った「固有名詞」でもあったのだということ。
だから、旧約聖書は、「エローヒム」という名前を持った神(至高神)の物語だった。
(2)ヤーウェを"主"と「誤訳」したために、様々な混乱が生じたが、語源までさかのぼって、ヤーウェ起源の「主」を特定すると、世界宗教、普遍的宗教にふさわしくない「神の言動」を選りわけることができ、キリスト教、イスラム教との共通性、一貫性を見出すことができるようになるので、「宗教紛争」を乗り越えることができる。
(3)そこから必然的に出てくる結論として、新約聖書の「イエスの父」=「愛の神」はエローヒムである。キリスト教会の一部に、新約・旧約を貫く「全知全能の神」を「エホバ(ヤーウェ)」に特定したがる傾向があるが、これは誤りである。
ヤーウェの正体は、パレスチナの山の神(怒りっぽい神)であり、これと至高神(普遍神)エローヒムをモーセが混同してしまったことが、中東の紛争(悲劇)の淵源である。
(4)したがって、イスラム教のアラーも、エローヒムのことである。
このことは、旧約と新約の神を(アラーとして)認めているイスラム教の穏健派(正統派)にとっては、別に不思議なことでも何でもない。
「イエスは救世主でなく、預言者であった」と、彼らは言っているだけで、「イエスに臨んだ神とムハンマドに臨んだ神が同じである」(アラーでありエローヒムである)ことに、別に彼らは異存はないのである。
実はこれが、イスラム教国で、密かにハッピーサイエンスの信者が増えている理由である。
「エル・カンターレとは、イエスの父のことなのだ」で、彼らは十分納得する素地を持っている。
(ちなみに、穏健派イスラム教は、聖書の神を「アラー」と表記している。アラー=エローヒムであれば、これは間違いではない。)
お互いに、意外と近い距離にいるのである。偏見を持っているのは、むしろ、我々の方かもしれない。
ですから、頑張りましょう。世界に真の平和をもたらすことができるのは、我々なのですから。
(本稿は、2011年4月27日北海道正心館七の日講話の内容をまとめたものです。)
ヤーウェの「誤訳」は、どこから始まったのか
次に、旧約聖書には、ヤーウェという神が出てきますが、ユダヤ教徒でそれを「ヤーウェ」と発音する人はいません。「みだりに名前を口にしてはいけない」という戒律があって、通常は、別の名前を代名詞として使っています。
その代理の表現を「アドナイ」と発音します。
その「アドナイ」が、ギリシャ語に訳された時に、(「代理表現」なので厳かに見えたのか)、「主」という意味のギリシャ語に訳されてしまいました。
従って、英語に訳された時は、"Lord"となり、日本語の聖書では「主」となっています。
「聖書に登場する「主」の語源が、すべて「ヤーウェ」である」とは言いませんが、少なからぬ部分は、「ヤーウェ」を語源としています。
(もちろん、根本にある原因は、「至高神エローヒムとその他の神霊の区別がつかなかったモーセの悟りの未熟さ」(『黄金の法』第5章)にあるのですが、それが、聖書の上では、そのような翻訳のスタイルとなって、現われてしまったのです。)
御法話『ヤーウェ、エホバ、アラーの正体を突き止める』によれば、ヤーウェはその後、19世紀の英国保守党の首相ディズレイリーとして生まれ変わりました。イギリスで唯一、ユダヤ人出身で首相になった人で、アフリカの植民地化を強力に推進しました。全知全能の神でも何でもありません。
また、エローヒムによれば、「ヤーウェ自身は、エチオピアかどこかの、エジプトに攻め込まれた地方の、辺境の地の小さな神がその出自であり、現代に例えれば、リビアのカダフィ大佐程度の存在だ」とのことです。
それが実態なのですが、「主」という言葉が冠せられたために、かなりの混乱が、その後の歴史で生じました。
(「主」とは本来、「創り主」という意味であり、「エル・カンターレ」にこそ、冠せられるべきものです。)
しかし、翻訳上の経緯からいうと、そういう混乱が起きています。「主」の名の下に、ここ三千年ほど、かなり西洋人を惑わせてきたので、「幸福の科学が、ユダヤ・キリスト教の中の“砂金”(=エローヒム)と“石”(=ヤーウェ)を選り分けなければならない」所以(ゆえん)となっています。
聖書の中で、「主」(Lord)という言葉に出会ったときに、「それがどちらの神のことを言っているのか、内容によって見分けよう」という眼を持つと、「洗脳」がパラパラと、剥がれ落ちるのを感じます。
あるいは、バチカンの麗々たる宮殿も、「音をたてて崩れる」とは言いませんが、「張り子の虎」に見えてくる感覚に打たれます。
(西方教会(カソリック、プロテスタント等)は、一般に、「エホバ(or ヤーウェ)を全知全能の神にしたがる」気が、ややありますのでね、これくらいは言っておいた方が良いと思います(笑)。)
びっくり仰天のヤーウェ発言
具体的に、ヤーウェ起源のいわゆる「主」の発言を見てみましょう。
ユダヤ民族の始祖はアブラハムですが、「創世記」第12章でアブラハムの前に登場する、いわゆる「主」を、ヤーウェに置き換えて読んでみます。
「ヤーウェは、アブラハムに言った。あなたの周りであなたを祝福する者たちのことは、私も祝福してあげるが、あなたを呪う者がいたら、私もその者を呪ってやる」と。
この発言を白紙の目でご覧になったら、いかがですか。
「四正道」や「許す愛」を学んだ人からみたら、「おかしい」と思うはずですね。「これがイエスの言われる"天なる父"の言葉なのだろうか?」と。
「あなたを迫害する者のためにこそ祈れ」と、「あなたを呪う者をこそ許せ」と、神ならばおっしゃるはずではないか、と思われると思います。
「許す愛」を説いて、これを修正するためにイエスが降臨された意味がよくわかります。
「これが本当に神様の言葉なのだろうか?」と思っても、「でも、Lordの名の下に書かれていることだから、神様が呪ってもいいなら、自分達も、呪ってもかまわないのだ」ということになって、紛争が絶えないわけです。
次に、「出エジプト記」の第5章を見てみましょう。
モーセが山でエローヒムに会った後、モーセと兄のアロンはパロ(エジプトの王)に会いに行って、次のように言います。
「ヤーウェはこう言っています。"私の民(イスラエルの民)を自由にして、元に戻しなさい"と」するとパロは、こう答えます。
「ヤーウェとは誰だ?聞いたことがないね」と。
つまり、超大国エジプトの王から見ると、「辺境のパレスチナの地の、山の神の名など、知らないよ」というわけです。
このように、「主」を「ヤーウェ」(辺境の地の山の神)に置き換えると、文章の意味が一変してきます。
その後、第5章以下第12章まで、パロにヤーウェの言うことを聞かせるために、ヤーウェの名の下に行われたことは、
「ナイル川の水を血の色に変えたり」、「蛙(カエル)を大量発生させて、地を覆ったり」、「地上の塵(ちり)を大量のブヨに変えて、人間を襲わせたり」、「アブの大群を家々の中に侵入させたり」、「人々の皮膚に、膿(うみ)の出る腫れ物をつくったり」、
「農作物の上に雹(ひょう)を降らせたり」、「イナゴの大群に全土を襲わせたり」、「エジプト人の全ての初子(ういご)の命を奪ったり」ということです。
大体このあたりで、人は、旧約聖書が嫌いになってしまうのですね(笑)。
(実際、私の知っている人で、こういうのが原因で、最後まで「洗礼」を受けなかった人がいます。)
「これを誰が命じ、実行させたのか」というのは、実際、日本語或いは英語の聖書だけ読むと、全て「主」が命じたことになっているので、それで混乱してしまうわけです。
しかし、ヘブライ語の原典までさかのぼって紐解いてみると、「アドナイ」と書いてあって、これはヤーウェの「代名詞」のことなのですね。
これがわかると、「なぁ~んだ」と疑問が氷解して、安心します。
これを長らく、「"神"がやったことなのだ」と信じてきた(少なくとも、信じ込もうとしてきた)わけですから、西洋三千年の歴史も、なかなか大変です。
(その4)
中東紛争の火種となった、ヤーウェのひと言
さらに言えば、細かくは詳述しませんけれども、「あなた方は、私以外の神を信じてはならない」(「出エジプト記第20章)
「あなた方は、偶像を造ってはならない」(同上)、「あなた方の神であるわたしは、妬む神である」(同上)、「だから、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代先まで呪ってやろう」(同上)、という言葉は、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「主」とは言っていますが、すべてヤーウェの言葉であることがわかります。
もう一つ付け加えれば、モーセがシナイ山で「十戒」を授かった有名な場面がありますが、そのとき、なかなかモーセが山から降りて来ないのを見て、イスラエルの民が、エジプト時代のように、子牛の像をつくって、その周りで踊ったりします。
すると、それを見たモーセは怒り狂って、こう叫びます。
「ヤーウェは、こう仰っている。『おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口へ行き巡って、自分達の兄弟、自分達の友、自分達の隣人を皆殺しにせよ』と」そして、そのとおり実行したので、一晩で三千人が虐殺されたと、「創世記」第32章には書いてあります。しかし、真実を言えば、天地創造の神が、そんな「異常性のある行動」を命じるはずもなく、ヘブライ語の聖書までさかのぼれば、それはヤーウェの命令であり、エローヒムではなかったことが記されています。
さらに、「創世記」第12章の以下の言葉に戻ってみましょう。
元々アブラハムの一族は、メソポタミア(今のイラク方面)の一地方に住んでいたのですが、ヤーウェは、アブラハムに向って、
「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが指し示す土地へ行きなさい」と命じ、カナン(今のイスラエル)の地に向かわせます。そして、アブラハムが一族と共に、カナンの地に入ったとき、再びヤーウェが現れて、「あなたの子孫に、わたしはこの土地を与える」
と言いました。これが今の「中東紛争」の起源です。
第二次世界大戦後、英米の後ろ盾を得て、世界中のユダヤ人が移植してきて、イスラエルの地に建国したとき、この「創世記」第12章のヤーウェの言葉が根拠とされました。
「四千年近く前の言葉が根拠にされる」というのも、すごい話ですが、いずれにせよ、イスラエルという国は、これを根拠にして建国されました。
その土地には、ユダヤ人もいましたが、アラブ人(パレスチナ人)が沢山住んでいました。したがって、追い出された人もいるわけですが、「神のくださった約束だから」ということで、それが「正当化」されているのです。
しかし、その神も、「主」とは表現されていますが、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「ヤーウェ」です。「エローヒム」ではありません。
この二つが「旧約聖書」の中で混在していることが、問題なのです。
(もちろん断っておきますが、この議論を通じて、イスラム教の側に立っているのではありません。レジメ校正中に、オサマ・ビン・ラディンが米軍の急襲で殺害されたニュースが入ってきましたが、イスラム教サイドの問題点については、機会を改めて触れたいと思います。)
「イザヤ書」の秘密を解く
今年1月16日の「『救世の法』講義」の後半部分で、新しい論点のお話がありました。その中で、『今日講演するにあたって、昨日いくつかの世界宗教のルーツの霊査に入りました。一神教のユダヤ教から調べに入りました。最初の頃のユダヤ民族の預言者には、モーセもそうなのですが、ヤーウェを信仰する一神教が頻繁に出てくるのですが、しかし、別の神の名前も出てきます』
と仰っしゃりながら、ここで新しく、旧約聖書の「イザヤ書」の話をされています。
「イザヤ書」には、第一イザヤ、第二イザヤという人が登場してきて(第三イザヤがいるという説もある)、この第二イザヤが、昔のリーディングでいうと、西郷隆盛なのですが、『この第一イザヤ、第二イザヤから、神の名前を「エローヒム」と呼んでいます』
と、そこで仰っています。
『そのエローヒムが、イザヤの前に現れた理由は、その数百年後、イエスが降臨することになっていたので、その準備のためでした』とありました。
ところで、この先生の御言葉は、日本語の聖書を読んでも、当然のことながら、わかりません。
また、英語版の聖書で読んでも、これまで、「創世記」や「出エジプト記」を分析してきた手法では、手がかりがつかめないのです。
これをどう解読したらよいのか。
主のおっしゃった、「イエスの降臨を準備するため」という言葉をヒントにして、以下で解明してみましょう。
(その5)
「イザヤ書」に登場するもう一つの「主」
イザヤ書は、第39章までが第一イザヤによるもので、第40章以降後半が、第二イザヤによるものとされています。
皆さんもよく、「イエスが生誕することは、旧約聖書の中で予言されていた」と聞かれたと思いますが、それが一番明確に書かれているのが、「イザヤ書」第7章なのです。
大抵の英語版聖書は、「主」をすべて、大文字で"The LORD"と表記します。ところが、プロテスタント福音派系の聖書では、「主」のことを、"The LORD"と、一部ですが、"the Lord"に、書き分けて表現しています。
これは、前者がヤーウェ(アドナイ)に起源を持つ「主」であるのに対し、後者がヤーウェに起源を持たない「主」(つまり「エローヒム」起源の「主」)であることを分かるようにするために、わざわざ、そのように表記しているのです。
そして、その"ヤーウェに起源を持たない「主」"が、「イザヤ書」第7章の「イエス生誕の予言の箇所」になって、突然、登場するのですね。
私も今日は、その聖書を持ってきています。日本語版では、全て「主」になっていますが、英語版の聖書には、一部、そのように書き分けてをしているものがあります。
つまり、イエスの生誕を予言した「主」の表記だけが、他とは違うのです。これは、語源までさかのぼってみないと、本当にわかりません。先生は、このことを仰っていたのです。
ここで、「イザヤ書」第7章13節からのくだりで、この「主」を「エローヒム」に置き換えて読んでみましょう。
「あなた方は、エローヒムのことを煩わせるでない。それゆえ、エローヒム自らが、あなた方に一つの「しるし」を与えるであろう。
見よ、処女が身ごもっている。そして、その処女は男の子を産み、「インマヌエル」と名づけるであろう。
その子は、凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べて育ち、やがて十分な知恵を得て、悪を退け、善を選び取るようになるであろう」
この予言をしている「主」のみが、表記が違っており、「ヤーウェ」を意味していないのですね。
さらに総裁は、『第二イザヤのところにも、エローヒムが現れた』と仰っていました。
これを探ってみますと、「イザヤ書」第45章のところで、実に興味深い表現が出てまいります。
読んでいるだけで、ゾクゾクしてくるくらい面白いのですが、(講話の中では仮説的に発表もしたのですが)、ここではグッとこらえて、もう一段証拠固めをして、ヘラトリ英語版で発表するときに、併せて、日本語版の方に加筆させていただきたいと思います。
以上、結論を4点にまとめてみると、
(1)エローヒムは、特定の名前を持った「固有名詞」でもあったのだということ。
だから、旧約聖書は、「エローヒム」という名前を持った神(至高神)の物語だった。
(2)ヤーウェを"主"と「誤訳」したために、様々な混乱が生じたが、語源までさかのぼって、ヤーウェ起源の「主」を特定すると、世界宗教、普遍的宗教にふさわしくない「神の言動」を選りわけることができ、キリスト教、イスラム教との共通性、一貫性を見出すことができるようになるので、「宗教紛争」を乗り越えることができる。
(3)そこから必然的に出てくる結論として、新約聖書の「イエスの父」=「愛の神」はエローヒムである。キリスト教会の一部に、新約・旧約を貫く「全知全能の神」を「エホバ(ヤーウェ)」に特定したがる傾向があるが、これは誤りである。
ヤーウェの正体は、パレスチナの山の神(怒りっぽい神)であり、これと至高神(普遍神)エローヒムをモーセが混同してしまったことが、中東の紛争(悲劇)の淵源である。
(4)したがって、イスラム教のアラーも、エローヒムのことである。
このことは、旧約と新約の神を(アラーとして)認めているイスラム教の穏健派(正統派)にとっては、別に不思議なことでも何でもない。
「イエスは救世主でなく、預言者であった」と、彼らは言っているだけで、「イエスに臨んだ神とムハンマドに臨んだ神が同じである」(アラーでありエローヒムである)ことに、別に彼らは異存はないのである。
実はこれが、イスラム教国で、密かにハッピーサイエンスの信者が増えている理由である。
「エル・カンターレとは、イエスの父のことなのだ」で、彼らは十分納得する素地を持っている。
(ちなみに、穏健派イスラム教は、聖書の神を「アラー」と表記している。アラー=エローヒムであれば、これは間違いではない。)
お互いに、意外と近い距離にいるのである。偏見を持っているのは、むしろ、我々の方かもしれない。
ですから、頑張りましょう。世界に真の平和をもたらすことができるのは、我々なのですから。
【小林早賢氏ブログ】国際政治学の要諦
【小林早賢氏ブログ】映画『神秘の法』公開に寄せて
【小林早賢氏ブログ】宇宙文明の黎明~反重力技術の可能性~
【小林館長メッセージ】パラレルワールドに迫る
【宇宙科学講義・入門】小林館長講義 『UFOのつくる』(2)
【宇宙科学講義・入門】小林館長講義 『UFOのつくる』(1)
【小林早賢氏ブログ】映画『神秘の法』公開に寄せて
【小林早賢氏ブログ】宇宙文明の黎明~反重力技術の可能性~
【小林館長メッセージ】パラレルワールドに迫る
【宇宙科学講義・入門】小林館長講義 『UFOのつくる』(2)
【宇宙科学講義・入門】小林館長講義 『UFOのつくる』(1)
Posted by ゆかりん(近藤由香里) at 13:52│Comments(0)
│ヘラトリ(転載)・小林早賢氏講話
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。