2011年03月17日
中東霊界事情(ヘラトリ19-6 転載)
『世界の目を醒ますヘラトリ.トピックス』 (第19号-6)
それでは、今までのポイントを整理してみます。
いわゆる『旧約聖書』の世界でヤーウェと呼ばれる存在は、天地創造の神であって、偉大なる神というイメージがあるのですが、その中には、色々な神様の言動が混在していて、たとえば、エローヒム的なものもあれば、ゼウス的なものもあるけれども、何かと今問題になっている、戦争の原因や宗教上の対立を生んでいるもの、つまり、「どうして宗教同士が戦争をするのだ?」という一神教的な対立、言葉を換えれば、「唯物論の側からの宗教に対する反論の根拠」を与えてしまっているのは、主として、「今日の最初に登場したヤーウェである」ということです。
要するに、民族主義的な、“自分以外は信じるな”とか“他宗の人間は殺してもよい”というような言葉を『旧約聖書』に残した神は、「正確にはエチオピア辺りの小さな神様や、初代族長のアブラハムを過去世にもった存在であった」ということです。
これに関して、エローヒムが最後に言ったのは、「イスラエルは今、人口1千数百万人程度の国であって、当時で言っても都市国家の中の一つくらいの規模であり、この程度の国を治める神様というのは、当時でも、あちらこちらに沢山いた」ということです。
「今風に解釈したら、タリバンの神様みたいなものであり、あるいは、直近の話題に即して言えば、前述したように、リビアのカダフィー大佐みたいなものだ」と。
「もし現代に生まれ変わって仕事をしたとしたら、カダフィー大佐のように映るでしょう」ということでした。
一方、ヤーウェの言葉の中で、本質的、普遍的な部分を取り出してみると、ハワイでの説法『Be Positive』の中で仰っていた、“ I am that I am.”はどういう意味かというと、ハワイでは、3点に分けて説明してくださいましたね。
まず、“I am the being.”~ 「私は存在そのものである」と。そして、“I am the origin.”~「私は、魂やあらゆる存在全ての起源であり、源である」と。「全てが私から分かれて生まれた」という意味です。3つ目が、“I am the origin of love.”~「 私は愛の起源、愛の源である」と。「この世に満ちている愛はどこから来るのかというと、私、エローヒムから来ているのである」、とモーセに伝えたのが、“I am that I am”の意味なのだと、教えて下さいました。
これを見ると、本当に、「本質的」で「普遍的」な教えが説かれたのがよくわかりますが、こういう「本質的」なことを後世に伝えたのは、カダフィ大佐のようなヤーウェではなく、オフェアリス(※オシリス)、つまりエル・カンターレだったのです。
そして、ユダヤ教の一番の核心の部分、コアの部分は、エル・カンターレが語り、エル・カンターレから流れてきたのです。
つまり、信仰の対象は、本当はエル・カンターレであった(少なくとも「エル・カンターレであるべきであった」、そして、『黄金の法』の言葉を借りれば、「モーセの悟りの未熟さがなければ、それは実現できることだった」)ということを、教えて下さっているのですね。
ポイントの二つ目、アラーとは誰か。それは、エローヒムであり、つまりエル・カンターレであったということです。これが今回、明確になりました。
今までは約40人の指導霊団を総称してアラーと呼ぶことが多いと言われていましたが、勿論そういう面もありますが、(アラーの)存在の本質は、エローヒムであり、エル・カンターレであったということです。
確かに、私もかつて、アフリカの友人からこのように尋ねられたことがあります。
「エル・カンターレの説明をするときに、“アラー”という言葉を使ってもよいか」と。
キリスト教の創造主について説明するときに、(寛容な)イスラム教徒は、“アラー”という言葉をそれに当てます。ですから、同じようにイスラム教的背景を持った人達に、「エル・カンターレの説明として、アラーという言葉を使ってもいいか?」と聞いてきたわけですね。
その時は、その質問の持つ深い意味を、今ほどよく理解していませんでしたが、今、この『霊言』を拝聴してみると、改めてよく分かります。
なぜ彼が、私にそういう質問をして、本部講師である私に「使ってもいいよ」と言って欲しかったのかが、よくわかります。
一年前のマレーシアでの出来事ですが、マレーシアというのは、主としてイスラム教国ではありますが、一定の信教の自由がある中、キリスト教の創造主に対して、「アラー」の名称を使用することを、実質的には長らく許容してきたのですね。(これは、一般的なイスラム教国では、今でもそうです。)
ところが、一年前に(宗教)高等裁判所が、「マレー語の記述において、キリスト教の創造主を“アラー”と呼ぶことを認める」という判決を改めて出したところ、これが、イスラム原理主義者の間で大きな問題となって、ある種の騒動のようなことが起きたことがありました。
「騒いでいるのは一部のイスラム教徒だけだ」という見方もありましたが、課題も見えてきました。いずれにせよ、「アラーとは、エローヒムのことである」という言葉は、「これから、大変重要な意味を持ってくる」というのが、お分かり頂けると思います。
そして、最後のポイントは、「キリスト教のイエスの父は、エル・カンターレである」ということです。つまり、「イスラム教の源・アラーはエローヒム、つまりエル・カンターレ」であり、「ユダヤ教の造物主、いわゆるヤーウェの教えの中核の部分の発信源は誰かというと、オフェアリス、すなわちエル・カンターレ」であり、「キリスト教のイエスの父も、エル・カンターレ」であるということです。
これによって、世界の3大宗教、4大宗教の源は、すべてエル・カンターレであり、「信仰が向かっていく対象は、エル・カンターレであった」ということも、お分かりいただけたと思います。
日本に住んでいますと、こういう内容も、何となく世界史の授業を受けている位の感覚で取ってしまうかと思いますが、実は、一歩日本の外に出ると、根源的なテーマになってきて、本当に腹を据えて取りかからないといけないテーマになってくるのですね。
今まで、一番分かりづらかったのは、ユダヤ教のところだったと思いますが、今回、これで明らかになって参りました。
今日は、やや世界宗教史的な、重厚な中身だったかと思いますが、この部分が、今後10年、20年、本格的に世界伝道していく上で、大きく問われてくると思います。今回は『霊言』という形で明らかになりましたが、いずれ、もう一段、二段と、このテーマは、先生によって鮮明にされていくと思います。是非、この『霊言』を拝聴されますことを心よりお勧めいたします。
本日は、どうもありがとうございました。
(以上)
それでは、今までのポイントを整理してみます。
いわゆる『旧約聖書』の世界でヤーウェと呼ばれる存在は、天地創造の神であって、偉大なる神というイメージがあるのですが、その中には、色々な神様の言動が混在していて、たとえば、エローヒム的なものもあれば、ゼウス的なものもあるけれども、何かと今問題になっている、戦争の原因や宗教上の対立を生んでいるもの、つまり、「どうして宗教同士が戦争をするのだ?」という一神教的な対立、言葉を換えれば、「唯物論の側からの宗教に対する反論の根拠」を与えてしまっているのは、主として、「今日の最初に登場したヤーウェである」ということです。
要するに、民族主義的な、“自分以外は信じるな”とか“他宗の人間は殺してもよい”というような言葉を『旧約聖書』に残した神は、「正確にはエチオピア辺りの小さな神様や、初代族長のアブラハムを過去世にもった存在であった」ということです。
これに関して、エローヒムが最後に言ったのは、「イスラエルは今、人口1千数百万人程度の国であって、当時で言っても都市国家の中の一つくらいの規模であり、この程度の国を治める神様というのは、当時でも、あちらこちらに沢山いた」ということです。
「今風に解釈したら、タリバンの神様みたいなものであり、あるいは、直近の話題に即して言えば、前述したように、リビアのカダフィー大佐みたいなものだ」と。
「もし現代に生まれ変わって仕事をしたとしたら、カダフィー大佐のように映るでしょう」ということでした。
一方、ヤーウェの言葉の中で、本質的、普遍的な部分を取り出してみると、ハワイでの説法『Be Positive』の中で仰っていた、“ I am that I am.”はどういう意味かというと、ハワイでは、3点に分けて説明してくださいましたね。
まず、“I am the being.”~ 「私は存在そのものである」と。そして、“I am the origin.”~「私は、魂やあらゆる存在全ての起源であり、源である」と。「全てが私から分かれて生まれた」という意味です。3つ目が、“I am the origin of love.”~「 私は愛の起源、愛の源である」と。「この世に満ちている愛はどこから来るのかというと、私、エローヒムから来ているのである」、とモーセに伝えたのが、“I am that I am”の意味なのだと、教えて下さいました。
これを見ると、本当に、「本質的」で「普遍的」な教えが説かれたのがよくわかりますが、こういう「本質的」なことを後世に伝えたのは、カダフィ大佐のようなヤーウェではなく、オフェアリス(※オシリス)、つまりエル・カンターレだったのです。
そして、ユダヤ教の一番の核心の部分、コアの部分は、エル・カンターレが語り、エル・カンターレから流れてきたのです。
つまり、信仰の対象は、本当はエル・カンターレであった(少なくとも「エル・カンターレであるべきであった」、そして、『黄金の法』の言葉を借りれば、「モーセの悟りの未熟さがなければ、それは実現できることだった」)ということを、教えて下さっているのですね。
ポイントの二つ目、アラーとは誰か。それは、エローヒムであり、つまりエル・カンターレであったということです。これが今回、明確になりました。
今までは約40人の指導霊団を総称してアラーと呼ぶことが多いと言われていましたが、勿論そういう面もありますが、(アラーの)存在の本質は、エローヒムであり、エル・カンターレであったということです。
確かに、私もかつて、アフリカの友人からこのように尋ねられたことがあります。
「エル・カンターレの説明をするときに、“アラー”という言葉を使ってもよいか」と。
キリスト教の創造主について説明するときに、(寛容な)イスラム教徒は、“アラー”という言葉をそれに当てます。ですから、同じようにイスラム教的背景を持った人達に、「エル・カンターレの説明として、アラーという言葉を使ってもいいか?」と聞いてきたわけですね。
その時は、その質問の持つ深い意味を、今ほどよく理解していませんでしたが、今、この『霊言』を拝聴してみると、改めてよく分かります。
なぜ彼が、私にそういう質問をして、本部講師である私に「使ってもいいよ」と言って欲しかったのかが、よくわかります。
一年前のマレーシアでの出来事ですが、マレーシアというのは、主としてイスラム教国ではありますが、一定の信教の自由がある中、キリスト教の創造主に対して、「アラー」の名称を使用することを、実質的には長らく許容してきたのですね。(これは、一般的なイスラム教国では、今でもそうです。)
ところが、一年前に(宗教)高等裁判所が、「マレー語の記述において、キリスト教の創造主を“アラー”と呼ぶことを認める」という判決を改めて出したところ、これが、イスラム原理主義者の間で大きな問題となって、ある種の騒動のようなことが起きたことがありました。
「騒いでいるのは一部のイスラム教徒だけだ」という見方もありましたが、課題も見えてきました。いずれにせよ、「アラーとは、エローヒムのことである」という言葉は、「これから、大変重要な意味を持ってくる」というのが、お分かり頂けると思います。
そして、最後のポイントは、「キリスト教のイエスの父は、エル・カンターレである」ということです。つまり、「イスラム教の源・アラーはエローヒム、つまりエル・カンターレ」であり、「ユダヤ教の造物主、いわゆるヤーウェの教えの中核の部分の発信源は誰かというと、オフェアリス、すなわちエル・カンターレ」であり、「キリスト教のイエスの父も、エル・カンターレ」であるということです。
これによって、世界の3大宗教、4大宗教の源は、すべてエル・カンターレであり、「信仰が向かっていく対象は、エル・カンターレであった」ということも、お分かりいただけたと思います。
日本に住んでいますと、こういう内容も、何となく世界史の授業を受けている位の感覚で取ってしまうかと思いますが、実は、一歩日本の外に出ると、根源的なテーマになってきて、本当に腹を据えて取りかからないといけないテーマになってくるのですね。
今まで、一番分かりづらかったのは、ユダヤ教のところだったと思いますが、今回、これで明らかになって参りました。
今日は、やや世界宗教史的な、重厚な中身だったかと思いますが、この部分が、今後10年、20年、本格的に世界伝道していく上で、大きく問われてくると思います。今回は『霊言』という形で明らかになりましたが、いずれ、もう一段、二段と、このテーマは、先生によって鮮明にされていくと思います。是非、この『霊言』を拝聴されますことを心よりお勧めいたします。
本日は、どうもありがとうございました。
(以上)
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【小林館長メッセージ】パラレルワールドに迫る
【宇宙科学講義・入門】小林館長講義 『UFOのつくる』(2)
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Posted by ゆかりん(近藤由香里) at 14:03│Comments(0)
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